2020年6月1日

「新しい日常」にツイテケナイ黄昏エンチョーのつぶやき ~その1~

2月からの新型コロナウィルス騒動で約3カ月間、見通しの立たない中、時間とエネルギーばかりを多く費やしてきた。得体の知れないものに対する不安、それが時には恐怖につながり平常心が奪われそうになる。イライライライラして眠れないこともあった。

思うに任せない日々の生活で正直消耗している。そんなとき政治家たちが「新しい日常」と言い始めた。まるでそこに新たな将来(出口)があるかのように……。僕はちっともそう思わない。「新しい日常」で言われている一つひとつのことに自分を合わせることに我慢ならない。僕にはオサキマックラである。年をくって適応力がなくなってしまったと思わないでもない。考えれば考えるほど「ツイテケナイ」。でも僕は今までどちらかというと新しいことに適応力があったと自負していた。秋田のドン百姓の長男が、キリスト教のセーヨーボーズになってしまったことが一番の証左である。生来新し物好きなのだ。

かつては実習生や職員に「椅子には『座る』ではなく『腰掛ける』だ」とか「地面には座ってはいけない、しゃがむだ」と意地悪ジイサンのように言っていたこともあった。でも最近は、家人には揶揄されるが、若者言葉も使うよう心がけている。ツイテケナイ、コナイダ、アッザーァス、ググル、ディスル、バズル、などなど自分で言うのも憚るが60半ばにして若者文化に近づこうとする適応力のあるエンチョーだと思っていた。僕は新し物好きなのだ。ところが、新型コロナウィルス禍の中で示された「新しい日常」にはツイテケナイ!そう思えば思うほどクラ~~クなってしまう。たそがれてきたのかなぁ。

秋田の早口言葉に「しゃべればしゃべるてしゃべらえる。しゃべにゃばしゃべにゃてしゃべらえる。どうせしゃべらえるんだら、しゃべにゃでしゃべらえるよりしゃべってしゃべらえるほうがまだええ、としゃべったってしゃべってけれ」というのがある。「意見をいえばおしゃべりだと批判される。沈黙しているとおとなしいと批判される。どうせ批判されるなら沈黙して批判されるより意見をいって批判される方がまだよい、と言ったと伝えてくれ」ぐらいの意味だ。座右の銘ではないが、僕は今までこう思って生きてきた。そうだ、鬱々していてもしょうがない。新型コロナウィルス禍で考えたこと思ったことたまっていることを吐き出してみよう。たまりにたまったものを少しずつつぶやいてみることにする。ご迷惑かもしれないが、黄昏エンチョーのつぶやきにおつきあいいただきたい。(5/29)

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