この間、エンチョーは何に不安を覚えていたのだろうか。振り返るにはまだ早いかもしれないが、開園にあたって中間的に振り返ってみたい。多少煩雑な話しになるかもしれないので(ここで読むのを止めないでいただきたい)4回に分けて掲載したい。
エンチョーの不安は、COVID-19という得体の知れないウィルスへの恐怖から来る不安もさることながら「世の中がこのまま進むと、日常生活をいちいち細々と権力から指示される社会になってしまう」という不安の方がかなり大きかったように思う。妄想と言われればそれまでだが、僕なりの傍証はある。加えて、僕は他人からいちいち指示されることに我慢ならない。それが権力者だったら尚更である。自分で感じ、自分で考え、自分で決めて、自分の責任で行動することを心がけてきた。新年度説明会では毎年冒頭に「幼稚園内で起きたことは幼稚園が全面的に責任を持ちますが『衣・食・住』つまり何を着て、何を食べて、どこに住むかについては、誰の指示も受けずに各ご家庭が自信と責任をもって決めてください」と申し上げている。日常生活をどう過ごすかは、自分で決めることが当たり前のことだと思って僕は生きてきた。
ところがCOVID-19騒動ではいちいち細々と「ガイドライン」という名で指示される。しかも全国一律、一斉で……。そしてそれが「新しい日常」だとのたまう。「離れろ」「マスクしろ」「換気しろ」「移動するな」「大声だすな」……。公衆衛生上やむを得ないこともあるだろうが、ホットイテほしい。自分で決める!
日本社会(学校)の管理化が進み、個人のあらゆる分野が制限され、管理され、号令一下、同じ行動を強いられることになるだろう危惧を僕は以前から抱いていた。日本社会では残念ながら同調圧力が強いため、右顧左眄して自分の行動を決める人が多い。だから号令をかけなくても「要請」と「ガイドライン」だけで「自粛」してしまう。むしろこちらの方が空恐ろしい。COVID-19騒動を機に、僕が抱いていた危惧よりも更にコワイ現実が露顕していると見るべきだろう。切り口を変えて、このコワイ現実がいつごろからどのように醸成されてきたのか、2006年の「教育基本法」改訂問題をあげて触れてみたい。醸成を促したものは、もちろん一つだけでなく、多くの要素が複合的に関係しているが、教育問題に絞って論じてみたい。ムズクならないよう努力してみるが……。(6/2、つづく)